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小林小太郎 (文部官僚) : ウィキペディア日本語版 | 小林小太郎 (文部官僚)[こばやし こたろう]
小林 小太郎(こばやし こたろう〔都倉。〕、1848年3月2日(嘉永元年1月27日) - 1904年(明治37年)10月30日)は明治時代前半期の日本の文部官僚。旧伊予松山藩士。長らく文部省の翻訳事業に携わり、欧米への日本の教育事情の紹介、ならびに日本の教育制度の近代化に貢献した〔三好、16頁。都倉。〕。諱は儀秀。号は碌々、百石〔西川、60頁。〕。 == 来歴 == 嘉永元年1月27日(1848年3月2日)、田中藩砲術師範小林小四郎(諱は儀行、のち伊予松山藩士)の長男として江戸赤坂氷川台の藩邸に生まれる。万延元年(1860年)、高輪の東禅寺に設けられていたイギリス公使館に預けられ、医師ウィリアム・ウィリスから英語を学んだ〔三好、17-19頁。西川、60頁。〕。文久3年(1863年)2月、生麦事件後の日英関係悪化にともない公使館から引き取られ、まもなく慶應義塾に入社。「慶應義塾入社帳」には初筆にその名が記されている〔三好、19-21頁。西川、60-61頁。慶應義塾150年史資料集編集委員会編 『慶應義塾150年史資料集 1 塾員塾生資料集成』 慶應義塾、2012年10月、259頁。〕。翌年、幕府の洋学研究教育機関・開成所に移り、慶応2年(1866年)12月に英学教授手伝並出役、翌慶応3年12月に英学教授手伝出役となった〔三好、21頁。西川、61頁。倉沢剛著 『幕末教育史の研究 一 直轄学校政策』 吉川弘文館、1983年2月、ISBN 4642032517、275-281頁。〕。また慶応3年3月、伊予松山藩大小性となり、幕府崩壊後の明治元年(1868年)10月には同藩洋学司教を拝命。さらに横浜法朗西学校に派遣されフランス語を学んでいる〔西川、61頁。三好、21-22頁。〕。 明治2年(1869年)7月、官制改革により新政府のもとに大学校(同年12月に大学と改称)が置かれると、同年9月に大学少助教を命じられ、ほどなく大学中助教、大学大助教に昇任。明治4年(1871年)7月、文部省新設にともない文部大助教に更任された〔「叙位裁可書・明治三十七年・叙位巻二十」。倉沢剛著 『学制の研究』 講談社、1973年3月、58頁、45-46頁、269-271頁。〕。この間、大阪洋学所在勤となり、明治4年1月には大学中博士入江文郎、同鈴木暢(唯一)とともに学術研究のため1年ほどの予定で欧州派遣を命じられた〔「叙位裁可書・明治三十七年・叙位巻二十」。東京大学百年史編集委員会編 『東京大学百年史 通史一』 東京大学、1984年3月、ISBN 4130010514、168-169頁。〕。小林は英国をめざし3月に出航。翌年6月(1872年7月)の帰国命令により、明治6年(1873年)1月に帰国した〔田中隆二著 『幕末・明治期の日仏交流 中国地方・四国地方篇(一)松江』 渓水社、1999年2月、ISBN 4874405320、11頁、84頁。西川、61頁。〕。 帰国後は同年中に文部省六等出仕まで進み、明治10年(1877年)1月に文部省報告課雇となったのち、明治13年(1880年)6月に文部少書記官に就任。明治15年(1882年)8月には文部権大書記官に進み、明治18年(1885年)12月に非職となるまで文部省に在職した。省内では、文部省年報の英訳を手がけるとともに欧米教育資料の翻訳・紹介に従事〔。訳書として文部省から『馬耳蘇氏 記簿法』、『政体論』、『馬耳蘇氏 複式記簿法』、『教育辞林』が刊行されているほか、文部省刊行の『文部省雑誌』、『教育雑誌』には翻訳記事が多数掲載されている〔西川、63頁。なお文部省刊行物だけでなく、鈴木唯一らが設立した汎愛社の機関誌『教育新誌』にも社員として執筆を行っている。教育ジャーナリズム史研究会編 『教育関係雑誌目次集成 第I期教育一般編 第20巻』 日本図書センター、1987年8月、ISBN 4820506404、参照。〕。簿記教科書『馬耳蘇氏 記簿法』は長期にわたり全国で使用され、『教育辞林』は刊行以前に訳稿が教育令立案の参考資料として重用された〔西川、57-59頁。湯川文彦 「明治初期教育事務の成立 : 田中不二麿と明治十二年教育令」(史学会編 『史学雑誌』第121編第6号、2012年6月、)22頁。〕。また、明治13年6月から報告局副長、明治14年(1881年)10月から報告局長、明治18年2月から学務一局副長を務め、さらに明治13年7月から翌年9月まで東京図書館長、明治14年4月から翌年1月まで体操伝習所主幹、明治18年12月中に東京大学予備門事務取扱を兼務した〔「叙位裁可書・明治三十七年・叙位巻二十」。「東京図書館年報 明治十三年 」(『文部省第八年報』)。「体操伝習所第三年報 」(『文部省第九年報』)、「体操伝習所年報 」(『文部省第十年報』)。〕。 文部省退官後も教育事業に携わり、引き続き文部省年報の英訳に従事したほか〔、大日本教育会理事、神田区学務委員を歴任。明治37年(1904年)10月30日、享年57で死去し、東京下谷区谷中の天王寺に葬られた〔三好、22頁。西川、63頁。〕。妹に医学者長谷川泰夫人・柳、弟に工部省製作寮出仕となった小林正雄がいる〔西川、60頁。〕。長男は外交官で日墨協会常務理事を務めた小林武麿、三男は物理学者〔“東北大学関係写真データベース 小林巌教授/大正15年(1926)頃 ” 東北大学史料館、2015年10月22日閲覧。〕で九州帝国大学、東北帝国大学教授を歴任した小林巌〔三好、22-23頁。西川、59-60頁。〕。
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